カレンダーについて

カレンダーの起源は、遥か昔の紀元前18世紀頃。古代バビロニア帝国の時代まで遡ります。(その頃、日本は縄文時代の真っただ中でした。)古代バビロニアでは、僧侶たちが毎夜寺院の屋上に登って、月を観測していました。そこである発見をしたのです。『月の満ち欠けは一定の周期で行われる』ということ。この周期を元に彼らは、新月から次の新月までを1カ月とするルールを決めました。これが太陰暦です。太陰暦の誕生で「月」や「日」の概念ができ、スケジュールを組む習慣が生まれたと推測されています。

太陰暦は画期的な発明でした。でも、弱点がありました。それは月の満ち欠けだけを基準にしているということです。新月から次の新月まではおよそ29,5日。1ヶ月が中途半端な数字になってしまいます。 地球が太陽の周りをまわる周期が約365日ですから、太陰暦をもとに生活していると1年で11日、3年で1ヵ月ほど太陽の運行とずれてしまいます。こうなると、15年後には1月が真夏で8月が真冬になってしまうのです。季節感ゼロですね。そこで3年に一回、1年を13ヶ月にし、調整をはかるようにしました。この調整を閏(うるう)といいます。この閏を太陰暦に加えたものが太陰太陽暦。日本でも、中国から6世紀後半に太陰太陽暦が伝来し、明治時代まで国暦として採用されていました。日本の太陰太陽暦は数回の誤差の修正を経て、天保十五年(1844年)に改暦。「天保暦」と呼ばれるようになりました。この天保暦は世界で最も正確な太陰太陽暦であったと言われているのです。

閏の登場によって季節論争は一段落ついたように見えました。しかし、別の問題が発生したのです。閏の挿入方法は地域や宗教的意味合いによってバラバラ。1月に閏を持ってくる地域もあれば、8月に持ってくる地域もありました。こうなると大変です。1月に閏を入れた地域が「1月40日に会いましょう」と8月に入れた地域に伝えても、「1月40日なんてないよ。8月40日ならあるけど」と、ややこしいことが起こるのです。この問題を解決したのは、ローマ帝国でした。古代ローマでは、エジプトで発明された太陽暦を使っていました。太陽暦はその名の通り、太陽を基準に考えた暦です。地球が太陽の周りを回る公転周期をもとに1年を365日とし、4年に1度、366日の閏年を制定したものです。ローマ軍は占領した地域において『太陽暦』を使えと号令を発します。発信者はユリウス・カエサル。「ブルータスお前もか!」でおなじみのローマ時代の政治家です。こうして広まった太陽暦はユリウス暦と呼ばれるようになるのです。 紀元前45年頃のお話です。

ユリウス暦には、わずかづつですが、季節と暦がずれる傾向がありました。そこで1582年にローマ法王グレゴリオが、より精度の高い暦へにするよう改暦を命じました。これが今の暦になっているグレゴリオ暦です。グレゴリオ暦が日本で採用されたのは1872年(明治5年)のこと。それまで日本では、グレゴリオ暦よりも正確だと言われている、太陰太陽暦『天保暦』を使っていました。なぜ国民にも浸透していて、さらに正確な天保歴を改暦する必要があったのでしょう。理由は、グレゴリオ暦を採用している諸外国と外交上で足並みをそろえるため、そして日本が文明国家の仲間入りしたことを広くアピールするためだったのです。暦を統一することは、国の行く末までも占う重要なことだったのです。

月日を刻むことで、人々は今を知り、未来を描きました。太陽暦が採用される前のローマでは、新月の日には笛を吹き鳴らし、月がかわったことを市民に告知していたそうです。この笛の音を聞いた人たちは、その合図とともに前の月のお金の精算をしていたと言われています。そういえば、現代でもカレンダーで日付を確認しては、古代と同じようにお金の精算をしています。このように、カレンダーには、歴史の中で培われた文化や風習がまだまだ残っています。例えば、日付とともに割り振られている「かのえ」や「寅」、「大安」「友引」といった文言も、遥か昔の文化や風習の名残です。これらは一体何を表わしているのでしょう。次のページでは、カレンダーに記載されている、いろいろな言葉の意味や由来を紹介します。ぜひ、ご覧ください。